早稲田ロマン研究会ブログ

漫画の表現や、表現の自由、海賊版問題や、出版について論じていきます

カタルシスという観点から見たエロ漫画についての考察

世の中には『快楽天』『ペンギンクラブ』『comic LO』などの雑誌が存在しますが、総じてエロ漫画は1作品が短いことに特徴があります。

たしかに、中には月を跨いだシリーズ物や、オタク差別を題材としたゴージャス宝田先生の『キャノン先生トばしすぎ』という比較的長いストーリー物も存在するのですが、大体のエロ漫画は十数ページで完結します。

 

その短いページ数の中で、エロ漫画家は男女の関係性を読者に提示しなければなりません(例・友達、恋人、赤の他人等々)。また、エロ漫画の大部分は読者にヌキを提供するために、性行為部分が相対的に大きくなります。そのために、男女の関係性を提示する部分は出来るだけ簡潔にし、半ば唐突に性行為に発展するというのが、エロ漫画がもつ形式化したパターンです。

 

関係性の提示は抜きに一直線に向かう道にすぎません。それがあまりにも雑なものでも性行為場面がしっかりしていれば、読者にとってそれは良作となります。

 

そこには、エロ漫画には一般向け漫画とは違い「カタルシスが中心となるという倒錯が存在する」という性格を示していると思われます。

 

ジャンプなどの一般向け漫画では「過程」が中心です。例えば、バトル漫画においては主人公がいかに強くなって平和を守るかという目標を達成するために、どんな敵と出会い、どのような努力を積み、どうやって敵を倒すかという過程が強調されるのがお決まりのパターンです。目標が達成されれば(カタルシス)そこで物語が終わります。読者はそこでカタルシスを得ることができ、満足するからです。だから、カタルシスを得た後から物語をだらだら続けることはありません。

 

しかし、エロ漫画においては「カタルシス」こそがページの大半であり、大半の読者はそこにしか興味がありません。過程はそこまで重要なものではなく、性行為というカタルシスだけが重要視されるのです(もちろん前述のように例外はある)。

 

「おいおい、待て。みちきんぐ先生の一作完結型の作品では過程に重きが置かれている。あのキャラクターを引き立たせる手法を無視しているのか」。という紳士様からの反論が聞こえてきそうです。

 

たしかに、みちきんぐ先生の作品ではキャラクターの魅力を引き立たせる手法が散見されます。

f:id:sodai_eroken:20181123134502j:plain

『羅刹編集佐藤さん』より引用

 

クールな今回のヒロインである編集者佐藤さんが、その性格とは相反したおかしなペンを価値あるものだと思っていて、男性主人公に突っ込まれるという、背反した佐藤さんの内面を表しています。ただ、佐藤さんがクールなキャラであるだけではなくて、面白おかしい一面を持つことを提示することで魅力を高めるみちきんぐ先生の企みがここにはあります。

 

しかし、キャラクターの魅力を引き立たせることは、性行為というカタルシスの価値を高めるために作者が仕掛けた「味付け」にすぎません。

 

前述のバトル漫画では戦うという過程は主人公の成長を促し(内面が変化する)カタルシスに近づかせるという役割を持っています。

 

しかし、みちきんぐ先生のキャラ付けはカタルシスに「近づかせる」という役割ではなく、カタルシスの「質を高める」ものです。

 

つまり、みちきんぐ先生の『キャラ付け』でキャラクターの内面は成長しませんし(何か佐藤さんの性格が変わったわけではない)、それによってキャラクターが性行為に向かうということもありません。ただ、そのキャラクターの性格を提示して付加価値をつけるだけです。

 

バトル漫画の過程は「主人公が成長」するのに対して、みちきんぐ先生の「キャラ付け」では主人公の本質が変わることはありませんし、それで物語が劇的に進展するということもないという点で両者は異なるのです。

 

ここまで、エロ漫画と一般向け漫画の違いを述べてきました。一般向け漫画では概してカタルシスが目指される目標であるのに対し、エロ漫画はカタルシスがページの中心を占める主題となるという「倒錯」があるのです。

 

しかし、前述したように性行為に至るまでの過程を重視するエロ漫画も存在します。短くない、シリーズ物であり過程にページが多く割かれているエロ漫画について取り上げた考察は次回以降に行おうと思います。

差別は「あたりまえ」からやってくるー「愛と法」レビュー

f:id:sodai_eroken:20181016192215p:plain

先日、渋谷のユーロスペースにて「愛と法」を観てきた。

この映画は、ゲイカップルでお互いに弁護士である南和行(カズ)と吉田昌史(フミ)両氏の君が代不起立裁判や、ろくでなし子裁判や無戸籍者の戸籍取得申し立て、少年事件などに取り組んだ3年間を追ったドキュメントだ。

ここで私が抱いた感想は、この映画が無意識の差別を可視化する作品であるということだ。

この映画の冒頭は「日本は世界で稀に見る同質性社会である」という文言から始まる。

この映画を通して伝えられていることは、当たり前を無意識に他人に押し付けてしまう日本の(日本に限らないかもしれないが)文化について描かれている。

例えば、君が代不起立裁判では原告の教師の方がこのようなことを言っていた。

「昔は私たちの方(君が代に対して良い感情を抱かない人々)の方が多数派だったのに、今や急速に少数派になってしまっている」。(要約)

昔は、日教組の力が強く学校教育の現場で君が代が演奏することは稀であったのだろう。

しかし、最近では(国旗国歌法ができてから生まれ、00年代から10年代にかけて義務教育を終えた私の実感として)君が代は学校行事があると常に歌わされた記憶がある。これが私の当たり前だったし、国旗が体育祭の時に揚げられようと、君が代を卒業式で歌おうとなんの違和感もなかったし、無意識に無批判にそれを「あたりまえ」として受け入れていた。

そういった、君が代を歌うことが圧倒的に支持を集める中で差別は発生していた。大阪で橋下市長の「君が代強制」によって君が代斉唱中立たなかった教員が相次いで減給処分に科されたのである。

君が代を歌う、歌わないはその人の表現行動であって、言論表現の自由の範疇に入るものであるはずである。

それを弾圧することは、思想に対する弾圧と同義だ。

これは君が代斉唱を拒否する教員が「売国奴」であり、「非国民」であって、公に奉仕するには資さない人物であるという差別意識からくるものだと考えられる。

しかし、君が代を歌うことは当たり前、歌えなければ非国民であると捉えられてしまうという状況の中でその自由の弾圧は強い同質性をもつ日本においては無意識に正当化されてしまう。

同じような状況は、弁護士カップルにも降りかかっていた。

ある講演会に登壇した南和行弁護士は、後援会の後ある男性と口論に近い討論をする羽目になった。

その男性曰く、「憲法には『両性の同意に基づいて』とあるのだから、同性カップルが結婚できると言う南弁護士の憲法観はおかしい」。「そもそも同性カップルは家族になれない。家族とは男女子供で構成されるものだからだ」。(要約)

南弁護士は男性の意見は差別意識に基づくものだと反論するのだが、男性は差別思想は持っていないといって譲らない。結局、男性の意見は変わらないままそこでの会話は終わった。

男性の意見は近代的家族観を自明視するあまりに、それから逸脱する同性カップルにその家族観を押し付けてしまっている。

しかし、男性はそれに気づくことはなかった。近代的家族観が彼にとっての唯一無二の価値観であるから、それに対して疑いを挟む余地を彼は持っていないためだ。

君が代を歌うことが当たり前と思っている人が君が代を歌いたくない人に行う差別。

近代的家族観が当たり前と思っている人が結婚したいと思っている同性愛者カップルに行う差別。

このような同様の構図がこの映画では際立っていた。「あたりまえ」は差別においての重要なファクターなのである。

私は、この映画を観て社会、引いては自分の中に強固に存在するかもしれない「当たり前」を疑う契機になると思われる。

「当たり前」の加害性をこの映画は教えてくれた。

10/19(金)には南弁護士の舞台公演があるそうだ。ぜひ一度観に行ってみてはいかがだろうか。

 

映画情報

movie.jorudan.co.jp

 

渋谷ユーロスペース

www.eurospace.co.jp

 

幾花にいろ単行本『幾日』 論評

f:id:sodai_eroken:20181009212916j:plain

 

創作物には現実にはあり得ない「ファンタジー」が溢れている。最近はやりの「異世界転生モノ」の例に目をやらなくても、人々は「今昔物語集」の頃から現実にはあり得ないことを読みたがる傾向がある。しかし、幾花にいろはありえるかもしれない「現実」を描く。そこには現実に飽きて表現物で夢想する人間にとっては、駄作になる可能性が潜んでいるものである。しかし、幾花にいろの作品は十全に漫画的に面白い。おもしろいと感じるのならば、その面白さは「ファンタジー」的設定にあるのではなく、何か別のところにあるはずである。もちろん、「現実」に忠実である作品群というものは数多あるが、作家の持つ奇抜な設定に面白さを託すことはできないので、作家の特徴としての「現実の描き方」というものがあるはずである。本稿では幾花にいろの特徴としての現実の描き方を考察していきたい。

 

現実的な、あまりに現実的な


 幾花にいろの特徴は先から述べているように「現実」路線にあるといえよう。単行本の帯にも「圧倒的リアル男女性態を描く再注目作家・幾花にいろ、初コミックス!!!!!!!!!!」とある。
彼のリアルさの出し方はどのようなものなのだろうか。

 まずはじめに幾花にいろの世界にはエロコンテンツにありがちな急に男女関係が構築されてしまう「御都合主義」は存在しない。急に女の子が上から落ちてきたり、家に淫乱メイドが住んでいたり、急に子供になって嫌われていた女の子たちに可愛がられたりはしないのである(それらの作品群が面白くないとは言っていない。御都合主義もエロ漫画の立派な、おもしろい表現技法である)。幾花の描く男女関係は、現実にかなりの割合の人々が体験したことがあるような関係性で構築されている。サークルの先輩後輩や会社の上司部下、同僚などといったものだ。これらの関係性はそれに慣れ親しんでいる読者たちに現実性を想起させることが可能になっている。

 また、幾花の作品では東海地方を想起させる方言、アイテムが漫画上に現れるのも現実性を引き出すアイコンになっている。例えば、『幾日』に収録されている「発火」という短編ではヒロインが話している言葉が三重弁である。

「私たち もう付き合っとるんやんね?」(幾花にいろ、『幾日』p.3)

 たしかに、関西弁を使うヒロインなどはよく漫画には出てくるが、それは一種「関西弁を喋る気の強い女の子」に対する萌えの表現だと思われる。
しかし、ここでの方言は未だ萌えの対象になっていない「三重弁」が用いられている。幾花のバックグラウンドも影響してはいるだろうが、標準語と関西弁ばかり話されるエロ漫画の世界では特異なことだと言えるだろう。しかし、現実社会では方言は話者がすくなくなったとはいえ、特異なことだとは見なされない。普通のことだ。その普通のことを描き込むことによって、幾花の作品は現実性を獲得している。

 また、同じく収録されている「咬合」に目を向けると男が着ている服が中日ドラゴンズのユニフォームと酷似している。しかも、男女が待ち合わせている場所が名古屋の金時計の下だ。

 

f:id:sodai_eroken:20181009212647j:plain

図.(同上、p.27)

このように、現実のものを登場させる手法もリアルさを読者に感じさせる要因になっているだろう。この手法によって、幾花の描く世界は現実の世界と地続きなのであると感じることができる。

つまり、リアルな関係を描くことと現実をオマージュすることによって現実性を読者に感じさせているのが幾花の作品なのである。

 

リアルを描いても面白くなる技法


 ただ、リアルだけを描いているのであれば「漫画的な面白さ」は感じられない筈だ。我々が暮らす三次元的な「世界」は漫然と流れる時間の方が多いのだ。たしかに、セックスというのは「現実世界と隔絶したカタルシス」として作用すると述べることもできようが、それを漫画に取り込んだとしても、「ただ恋愛関係にある男女がセックスをしているだけ」ということになりかねない。

 では、幾花の描く漫画の面白さはどこから発生するものなのであろうか。それは、「キャラ付け」にあると私は考察する。


 ここでいう「キャラ付け」とは、なにも外面のことではない。幾花の描く女の目は概して細めという特徴があるので、外面だけではどのキャラだったか判別に困るかもしれない。そうではなくて、キャラ付けとは内面への肉付けのことである。


 これが如実に表れている例として前述した「発火」に目を向けてみたい。ここでは、サークルの卒業生の松本みやびとまだ在学中の後輩である川島陽平が登場する。デート中、みやびの方はいつもニコニコしている。しかし、実はみやびはニコニコした顔の裏で、陽平に本心を悟らせないようにニコニコしているのであって、付き合っているかどうかを確認してみたり、敬語を使わないように無茶振りをしたりと、陽平をからかっている。陽平はそんな彼女本心を測ることが出来ず悶々とする。そして気がつくとラブホテル街に入ってしまっており、休憩としてラブホテルに入る。そして、セックスをし、いつもニコニコしていたみやびは乱れ始める。ニコニコは淫乱を隠すための仮面だったのだと陽平は気づく。素を見せてしまい、陽平に嫌われないかを心配するみやびに陽平は「嫌いませんよっ!!!」と言ってキスをする。ここまでは非常にありきたりなストーリーのように思われる。「あの真面目そうな学級委員長が実は!?」などといったエロ漫画などは世の中に溢れているのだ。しかし、そこでは終わらないのが幾花のレベルの高さである。性行為のあとみやびから陽平にとって衝撃的な事実が語られる。からかっていたことを告白したのだ。そこで漫画は終わる。

 ただでさえページ数に制約がある上に、性行為描写にそれの大半を割かなくてはならないエロ漫画において、みやびの行動に二つの意味を同時に入れ込むことができるというのは幾花の技術であろう。「嫌われたくない、でもからかいたい」というアンビバレンツがここには表れている。このような具体的な心的描写、つまりキャラ付けが幾花の作品を「おもしろい」ものにしているのである。

最後に
 幾花の作品を現実性の面とキャラ付けの面から考察した。もちろん、幾花の描画能力は並外れた部分があり、表現力という面でも特筆すべき点はあるだろうが長くなるのでここでは割愛させていただく。
 幾花の作品は本当にすごいと思うのでみなさんはぜひアマゾンかワニマガジンの公式サイトから買えるので是非買って欲しい。

 

 

早稲田祭の形式化ー過去の無秩序に思いを馳せる

某日、私が所属する別サークルにおいて早稲田大学の学園祭である早稲田祭で飲食店を出店するというので、看板作成の手伝いをしてきた。

 

美術要員がいないそのサークルでは作業は思った以上に進まず後日どこかで作業を継続しようという段取りになったのだが、そこで問題が起こった。

 

早稲田祭2018年運営スタッフ(以下、運スタ)によると大学構内はおろか、付近の公園でも作業は許されないというのだ。

 

たしかに、早稲田祭は当局が公認しているイベントではないから大学構内での作業は決まった時間以外は不可というのは分からなくもない(でも、私は大学は当局のものではなく我々学生のものだと思っているので、通行の妨げにならなければ良いと思っているのだがそれについては別の機会に綴ろうと思う)。

 

しかし、公園での作業不可とはあまり納得できる話ではない。公園での活動は学実の管轄の外のものであるはずだからである。

 

一応東京都立公園条例を一通り読んでみたが禁止行為の中に「絵の具を使うこと」や「アート作成」、「看板作成」などに関する決まりはないようだ。

http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1011484001.html

 

実際私も戸山公園でタテカン作成に関わったことがある。何も注意は受けなかった。

 

批判を恐れすぎている気がするのは私だけだろうか。

 

たしかに、早稲田祭は一度、不正会計の問題で1996年に中止に追い込まれそれまで早稲田祭を取り仕切っていた革マル派が追放される形で今の「早稲田祭2002年実行委員」が設立され2002年にようやく復活したという経緯がある(以下の記事参照)。

http://waseda-ad.com/wasead/waseda/wasedasai-fukkatsu/

 

おそらく、付近の住民からの批判を恐れた運スタの自主規制なのであろう。

 

通報が早稲田大学の当局に行けば再び中止に追いやられてしまう可能性も「完全には」否定しきれない。

 

一度、当局が学生の署名活動を見ても渋りに渋って6年かけてやっと開催を承認してもらったという運スタのバックグラウンドから鑑みるに「当局の信頼が第一」と考え、公園の使用禁止という過剰とも思われる自主規制をやってしまうのも無理はないかもしれない。

 

しかし、それは学生をそれでガチガチに縛ることによって早稲田祭を硬直化、形式化させてしまっているのではないだろうか。

 

「しかし年次を追うごとに早稲田祭は形式化し、運スタはお役所化してしまったという声をよく聞きます。早稲田祭の面白みが減っている。」

http://chuyasai2016.hatenablog.com/entry/2016/10/21/212328

 

たしかに、今年の企画の数は450個もあるらしい。それは正直にすごいと思う。

 

しかし、企画だけが早稲田祭の楽しさであっていいのだろうか。

 

私はそうは思わない。

 

早稲田祭の過去についてを調べてみると次のような記事が見つかった。

 

早稲田大学は1997年から2002年までの6年間、学園祭が中断していた。現在は2日間開催だが、かつては本祭4日間に加え準備撤収を含めて、一週間にわたり行われる大規模な祭りであった。飲酒は全面解禁であり、準備日の2日間だけでベロベロに酔っ払ってしまう人間が続出したとか。さらに、マイナーアイドルであった制服向上委員会のライブに、『愚連』と呼ばれる過激なファンが乱入し消化器を撒き散らすなど、カオスな風景も見られたようだ。なぜ、こうした風景が学園祭に存在していたのかといえば、60~70年代に勃興した学生運動を経て、学生のサークル活動が一定の自治を獲得していたためだろう。現在、こうした風景が失われてしまったのは寂しいものだ。」

https://www.excite.co.jp/News/90s/20161111/E1477036152614.html?_p=2#ixzz5TKsiN7Z5

 

この記事が言及している時代の状況は今とはかなり違うものである。

 

学生運動はもはや終焉してしまったといってもいいし、学生のサークル活動は地下部室を奪われて自治などというものは消え失せた。学生会館からは22時に出ねばならいし、最近では地下2階の練習スペースまで当局からまともな通知も説明もないまま練習を禁止された。喫煙所も減るばかり、諏訪通り沿いのタテカンも無くなってしまった。

 

そんな状況に今の運スタの規制を恐れた形式化の原因が潜んでいるならば修正は不可能なものに思われる。私が何か言っても学生運動もサークル自治も復活しないだろう。

 

しかし、私としては、そのような時代に思いを馳せざるを得ないのである。そこは形式化した催しの会場ではなくて、規制を恐れない無秩序が充満していた場所であった。

 

私は自由に対して快哉を叫びたいし、そんな文化祭を追い求めていきたい。今の大学は全体として規制と自主規制でがんじがらめになっている。

 

早稲田LINKSのインタビューに対しで運スタの統括が次のように答えたことがあった。

 

早稲田祭を運営している者として昔の過ちを忘れず、危機意識や再発防止の意識を持つことを伝えているんです。」

http://www.waseda-links.com/circle4/

 

しかし、学生運動時代から形成され、97年に終わりを告げた無秩序な学園祭文化は、不正会計問題という一点だけで否定されてしまってはならない。それは、昔の学園祭の一面しか見ていないことになるからだ。過去の早稲田祭の本質とは不正会計でも革マルが実質的に牛耳っていたことでもなく、草の根の学生の自主的で当局からの規制も自主規制もない自由な空間にあったのではないか。

 

規制をされ、またそれを恐れて形式化してしまった大学生活があるからこそ、そのような無形の無秩序に思いを馳せて得られるものがあると私は考える。

 

 

 

 

今そこにある表現規制ー早稲田大学タテカン問題ー

f:id:sodai_eroken:20180921141402j:plain

伊藤陽平新宿区議会議員の質問

昨日、9月20日、新宿区議会で行われている第3回定例会において伊藤陽平区議会議員の質問がありました。

 

私が注目していた質問は、「表現規制問題」についてです。

 

いま、我らが早稲田大学ではタテカン規制の問題が現在進行形で起こっています。

 

これは、大学当局が敷地面積250㎡以上の建物に緑化の義務を課す新宿区の

みどりの条例

を理由に、早稲田大学戸山キャンパス諏訪通り沿いの立て看板が設置できなくされようとしている問題です。

 

この問題の概要については以下の記事を読めばわかりやすいと思います。

 

note.mu

 

一部の学生は、当然「緑化」の名の下に行われている立て看板規制には反対しています。

 

今回、伊藤議員の質問では吉住新宿区長に対し、「新宿区みどりの条例」が早稲田大学戸山キャンパスの文化である立て看板へ影響していることについての区長の見解と、緑化された箇所への臨時的な立て看板設置は認められるかどうかの二点について質問してくださいました。

 

itoyohei.com

 

区長と伊藤議員の質疑は以下の通りです。

 

伊藤 新宿区みどりの条例が、早稲田大学戸山キャンパスの文化である立看板へ影響を与えていることについて、どのようにお考えでしょうか。
緑化された箇所に新歓期等の臨時的な看板を設置することは「新宿区みどりの条例」で規制の対象には入らないと考えていますが、いかがでしょうか。

吉住区長 新宿区みどりの条例と早稲田大学戸山キャンパスの立看板についてです。
区では、新宿区をみどり豊かなうるおいと安らぎのあるまちにするため、平成3年度から、敷地面積が250平方メートルを超える建築等の計画時に、みどりの条例に基づき、接道部や敷地の空地等への緑化を義務付けています。
この中で、接道部緑化は、道路に直接面する植栽の造成に加え、既存樹木の保存を接道部緑化とみなす措置や壁面緑化などの選択肢も用意しています。
みどりの条例に基づく緑化は、事業者の様々な工夫により緑地の創出を目指すものであり、臨時的なものも含め、立看板そのものを規制する制度ではありません。

 

この区長の答弁を見て、私は違和感を覚えざるを得ませんでした。

 

なぜなら、区長の答弁と早稲田大学がこれまで行ってきた説明には食い違いがあったからです。

 

以下でそれについて説明していきます。

 

 

早稲田大学のこれまでの主張

早稲田大学のこれまでの主張は以下のPDFからご覧いただけます。

 

これは早稲田大学より学生全員に送られてきたメールに添付してあったものです。

 

http://www.waseda.jp/student/toyama_tatekanban20180824.pdf

大学の主張と新宿区長の答弁の矛盾点

 

 この文書には

 

「 本学は、新宿区内の施設所有者として、「新宿区みどりの条例」の対象となり、敷地と接道部の間に設 けるフェンスは敷地内に後退させて、接道部の前面道路側を緑化することが義務付けられています。」

 

とあります。これによると、「みどりの条例」によってフェンスの後退と接道部の前面緑化は義務である。

 

というふうに読めます。

 

しかしながら、区長の説明では

 

この中で、接道部緑化は、道路に直接面する植栽の造営に加え、既存樹木の保存を接道部緑化とみなす措置や壁面緑化などの選択肢も用意しています。

 

となっています。これは明らかに早稲田大学側の説明と相違します。

 

フェンスの後退は義務ではなく一つの選択肢に過ぎず、ほかの選択肢も用意してあると新宿区は言っているのです。

 

これで早稲田大学のタテカン規制の論拠は木っ端微塵に崩壊したように見えます。ほかの選択肢を採用すれば、タテカン規制は免れられる。それにもかかわらず、ほかの選択肢があることを学生に隠し、タテカン規制をろくな説明もなく強行してきたわけです。新宿区の条例を「悪用」したと言われても仕方がないのではないでしょうか。

 

では、新宿区がタテカンに影響しない範囲での緑化を承認しているのにもかかわらず大学側の新宿区との協議の結果タテカン規制は免れないという主張している点はどうなるのでしょうか。

 

新宿区との協議とは何だったのか

 

*ここからは、邪推も多く入っています。大学側が協議内容をほとんど学生側に開示していないからです。

 

早稲田大学

 

「1立看板の設置を理由に緑化が義務付けら れている接道部の長さを緩和することは可能か。2一部の立木を伐採して立看板が見えるように設置す ることは可能か。」

ということについて新宿区と協議したと言っています。

 

新宿区からの回答は、

 

「新宿区みどりの条例」第 21 条第1項ならびに「同条例施行規則」第 18 条第1項および第2項ならびに同条別表第 2 に定められている基準に対して、特例として緩和的な措 置は新宿区として認められない

 

ということでした。

 

ここからは推測なのですが、大学側は「接道部緑化」に対してだけ緩和措置が採用できないか新宿区に問い合わせたのではないでしょうか。

 

新宿区からしてみれば、ほかの緑化方法があることは当然知りつつも、「接道緑化をするならば条例の通り、緑化は完遂してくださいね」。と回答するほかなかったのではないでしょうか。

 

大学側が、ほかの緑化方法があることを知りつつも「接道緑化」に対してだけ協議を行ったとしたならば、それは新宿区から「接道緑化は完遂してください」。という言質を取ると同時に、「早稲田大学としてタテカンを守るために新宿区と協議したが無理だった。大学は悪くない」。というアリバイ作りの2つの効果を狙っていたのかもしれないと考えてしまいます。

 

大学には一刻も早い協議内容の開示が求められます。

 

今後のタテカン問題の展望

早稲田大学の秋学期は9月の下旬からスタートしていきます。学生が、大学に戻ってくるわけです。大学には「大学側がタテカン規制の根拠にしていたものが崩れ去った」という事実があるわけですから、当然、大学に問い合わせに来た学生に対して、正直で公正な説明が求められます。

また、根拠が崩壊したわけですからタテカン規制は不可能だと考えてもいいかもしれません。しかし、大学側が開き直り、タテカン規制を推し進めてくる可能性も捨てきれません。

これからもタテカン問題については学生による大学側の動きの注視が必要になっていくと思います。

私も何か新たな動きがあれば記事にしていきたいと思います。

 

書いた人

伊藤さん (@)

早稲田大学ロマン研究会幹事長・早稲田大学一年