早稲田ロマン研究会ブログ

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幾花にいろ単行本『幾日』 論評

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創作物には現実にはあり得ない「ファンタジー」が溢れている。最近はやりの「異世界転生モノ」の例に目をやらなくても、人々は「今昔物語集」の頃から現実にはあり得ないことを読みたがる傾向がある。しかし、幾花にいろはありえるかもしれない「現実」を描く。そこには現実に飽きて表現物で夢想する人間にとっては、駄作になる可能性が潜んでいるものである。しかし、幾花にいろの作品は十全に漫画的に面白い。おもしろいと感じるのならば、その面白さは「ファンタジー」的設定にあるのではなく、何か別のところにあるはずである。もちろん、「現実」に忠実である作品群というものは数多あるが、作家の持つ奇抜な設定に面白さを託すことはできないので、作家の特徴としての「現実の描き方」というものがあるはずである。本稿では幾花にいろの特徴としての現実の描き方を考察していきたい。

 

現実的な、あまりに現実的な


 幾花にいろの特徴は先から述べているように「現実」路線にあるといえよう。単行本の帯にも「圧倒的リアル男女性態を描く再注目作家・幾花にいろ、初コミックス!!!!!!!!!!」とある。
彼のリアルさの出し方はどのようなものなのだろうか。

 まずはじめに幾花にいろの世界にはエロコンテンツにありがちな急に男女関係が構築されてしまう「御都合主義」は存在しない。急に女の子が上から落ちてきたり、家に淫乱メイドが住んでいたり、急に子供になって嫌われていた女の子たちに可愛がられたりはしないのである(それらの作品群が面白くないとは言っていない。御都合主義もエロ漫画の立派な、おもしろい表現技法である)。幾花の描く男女関係は、現実にかなりの割合の人々が体験したことがあるような関係性で構築されている。サークルの先輩後輩や会社の上司部下、同僚などといったものだ。これらの関係性はそれに慣れ親しんでいる読者たちに現実性を想起させることが可能になっている。

 また、幾花の作品では東海地方を想起させる方言、アイテムが漫画上に現れるのも現実性を引き出すアイコンになっている。例えば、『幾日』に収録されている「発火」という短編ではヒロインが話している言葉が三重弁である。

「私たち もう付き合っとるんやんね?」(幾花にいろ、『幾日』p.3)

 たしかに、関西弁を使うヒロインなどはよく漫画には出てくるが、それは一種「関西弁を喋る気の強い女の子」に対する萌えの表現だと思われる。
しかし、ここでの方言は未だ萌えの対象になっていない「三重弁」が用いられている。幾花のバックグラウンドも影響してはいるだろうが、標準語と関西弁ばかり話されるエロ漫画の世界では特異なことだと言えるだろう。しかし、現実社会では方言は話者がすくなくなったとはいえ、特異なことだとは見なされない。普通のことだ。その普通のことを描き込むことによって、幾花の作品は現実性を獲得している。

 また、同じく収録されている「咬合」に目を向けると男が着ている服が中日ドラゴンズのユニフォームと酷似している。しかも、男女が待ち合わせている場所が名古屋の金時計の下だ。

 

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図.(同上、p.27)

このように、現実のものを登場させる手法もリアルさを読者に感じさせる要因になっているだろう。この手法によって、幾花の描く世界は現実の世界と地続きなのであると感じることができる。

つまり、リアルな関係を描くことと現実をオマージュすることによって現実性を読者に感じさせているのが幾花の作品なのである。

 

リアルを描いても面白くなる技法


 ただ、リアルだけを描いているのであれば「漫画的な面白さ」は感じられない筈だ。我々が暮らす三次元的な「世界」は漫然と流れる時間の方が多いのだ。たしかに、セックスというのは「現実世界と隔絶したカタルシス」として作用すると述べることもできようが、それを漫画に取り込んだとしても、「ただ恋愛関係にある男女がセックスをしているだけ」ということになりかねない。

 では、幾花の描く漫画の面白さはどこから発生するものなのであろうか。それは、「キャラ付け」にあると私は考察する。


 ここでいう「キャラ付け」とは、なにも外面のことではない。幾花の描く女の目は概して細めという特徴があるので、外面だけではどのキャラだったか判別に困るかもしれない。そうではなくて、キャラ付けとは内面への肉付けのことである。


 これが如実に表れている例として前述した「発火」に目を向けてみたい。ここでは、サークルの卒業生の松本みやびとまだ在学中の後輩である川島陽平が登場する。デート中、みやびの方はいつもニコニコしている。しかし、実はみやびはニコニコした顔の裏で、陽平に本心を悟らせないようにニコニコしているのであって、付き合っているかどうかを確認してみたり、敬語を使わないように無茶振りをしたりと、陽平をからかっている。陽平はそんな彼女本心を測ることが出来ず悶々とする。そして気がつくとラブホテル街に入ってしまっており、休憩としてラブホテルに入る。そして、セックスをし、いつもニコニコしていたみやびは乱れ始める。ニコニコは淫乱を隠すための仮面だったのだと陽平は気づく。素を見せてしまい、陽平に嫌われないかを心配するみやびに陽平は「嫌いませんよっ!!!」と言ってキスをする。ここまでは非常にありきたりなストーリーのように思われる。「あの真面目そうな学級委員長が実は!?」などといったエロ漫画などは世の中に溢れているのだ。しかし、そこでは終わらないのが幾花のレベルの高さである。性行為のあとみやびから陽平にとって衝撃的な事実が語られる。からかっていたことを告白したのだ。そこで漫画は終わる。

 ただでさえページ数に制約がある上に、性行為描写にそれの大半を割かなくてはならないエロ漫画において、みやびの行動に二つの意味を同時に入れ込むことができるというのは幾花の技術であろう。「嫌われたくない、でもからかいたい」というアンビバレンツがここには表れている。このような具体的な心的描写、つまりキャラ付けが幾花の作品を「おもしろい」ものにしているのである。

最後に
 幾花の作品を現実性の面とキャラ付けの面から考察した。もちろん、幾花の描画能力は並外れた部分があり、表現力という面でも特筆すべき点はあるだろうが長くなるのでここでは割愛させていただく。
 幾花の作品は本当にすごいと思うのでみなさんはぜひアマゾンかワニマガジンの公式サイトから買えるので是非買って欲しい。