早稲田ロマン研究会ブログ

漫画の表現や、表現の自由、海賊版問題や、出版について論じていきます

カタルシスという観点から見たエロ漫画についての考察

世の中には『快楽天』『ペンギンクラブ』『comic LO』などの雑誌が存在しますが、総じてエロ漫画は1作品が短いことに特徴があります。

たしかに、中には月を跨いだシリーズ物や、オタク差別を題材としたゴージャス宝田先生の『キャノン先生トばしすぎ』という比較的長いストーリー物も存在するのですが、大体のエロ漫画は十数ページで完結します。

 

その短いページ数の中で、エロ漫画家は男女の関係性を読者に提示しなければなりません(例・友達、恋人、赤の他人等々)。また、エロ漫画の大部分は読者にヌキを提供するために、性行為部分が相対的に大きくなります。そのために、男女の関係性を提示する部分は出来るだけ簡潔にし、半ば唐突に性行為に発展するというのが、エロ漫画がもつ形式化したパターンです。

 

関係性の提示は抜きに一直線に向かう道にすぎません。それがあまりにも雑なものでも性行為場面がしっかりしていれば、読者にとってそれは良作となります。

 

そこには、エロ漫画には一般向け漫画とは違い「カタルシスが中心となるという倒錯が存在する」という性格を示していると思われます。

 

ジャンプなどの一般向け漫画では「過程」が中心です。例えば、バトル漫画においては主人公がいかに強くなって平和を守るかという目標を達成するために、どんな敵と出会い、どのような努力を積み、どうやって敵を倒すかという過程が強調されるのがお決まりのパターンです。目標が達成されれば(カタルシス)そこで物語が終わります。読者はそこでカタルシスを得ることができ、満足するからです。だから、カタルシスを得た後から物語をだらだら続けることはありません。

 

しかし、エロ漫画においては「カタルシス」こそがページの大半であり、大半の読者はそこにしか興味がありません。過程はそこまで重要なものではなく、性行為というカタルシスだけが重要視されるのです(もちろん前述のように例外はある)。

 

「おいおい、待て。みちきんぐ先生の一作完結型の作品では過程に重きが置かれている。あのキャラクターを引き立たせる手法を無視しているのか」。という紳士様からの反論が聞こえてきそうです。

 

たしかに、みちきんぐ先生の作品ではキャラクターの魅力を引き立たせる手法が散見されます。

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『羅刹編集佐藤さん』より引用

 

クールな今回のヒロインである編集者佐藤さんが、その性格とは相反したおかしなペンを価値あるものだと思っていて、男性主人公に突っ込まれるという、背反した佐藤さんの内面を表しています。ただ、佐藤さんがクールなキャラであるだけではなくて、面白おかしい一面を持つことを提示することで魅力を高めるみちきんぐ先生の企みがここにはあります。

 

しかし、キャラクターの魅力を引き立たせることは、性行為というカタルシスの価値を高めるために作者が仕掛けた「味付け」にすぎません。

 

前述のバトル漫画では戦うという過程は主人公の成長を促し(内面が変化する)カタルシスに近づかせるという役割を持っています。

 

しかし、みちきんぐ先生のキャラ付けはカタルシスに「近づかせる」という役割ではなく、カタルシスの「質を高める」ものです。

 

つまり、みちきんぐ先生の『キャラ付け』でキャラクターの内面は成長しませんし(何か佐藤さんの性格が変わったわけではない)、それによってキャラクターが性行為に向かうということもありません。ただ、そのキャラクターの性格を提示して付加価値をつけるだけです。

 

バトル漫画の過程は「主人公が成長」するのに対して、みちきんぐ先生の「キャラ付け」では主人公の本質が変わることはありませんし、それで物語が劇的に進展するということもないという点で両者は異なるのです。

 

ここまで、エロ漫画と一般向け漫画の違いを述べてきました。一般向け漫画では概してカタルシスが目指される目標であるのに対し、エロ漫画はカタルシスがページの中心を占める主題となるという「倒錯」があるのです。

 

しかし、前述したように性行為に至るまでの過程を重視するエロ漫画も存在します。短くない、シリーズ物であり過程にページが多く割かれているエロ漫画について取り上げた考察は次回以降に行おうと思います。