差別は「あたりまえ」からやってくるー「愛と法」レビュー
この映画は、ゲイカップルでお互いに弁護士である南和行(カズ)と吉田昌史(フミ)両氏の君が代不起立裁判や、ろくでなし子裁判や無戸籍者の戸籍取得申し立て、少年事件などに取り組んだ3年間を追ったドキュメントだ。
ここで私が抱いた感想は、この映画が無意識の差別を可視化する作品であるということだ。
この映画の冒頭は「日本は世界で稀に見る同質性社会である」という文言から始まる。
この映画を通して伝えられていることは、当たり前を無意識に他人に押し付けてしまう日本の(日本に限らないかもしれないが)文化について描かれている。
例えば、君が代不起立裁判では原告の教師の方がこのようなことを言っていた。
「昔は私たちの方(君が代に対して良い感情を抱かない人々)の方が多数派だったのに、今や急速に少数派になってしまっている」。(要約)
昔は、日教組の力が強く学校教育の現場で君が代が演奏することは稀であったのだろう。
しかし、最近では(国旗国歌法ができてから生まれ、00年代から10年代にかけて義務教育を終えた私の実感として)君が代は学校行事があると常に歌わされた記憶がある。これが私の当たり前だったし、国旗が体育祭の時に揚げられようと、君が代を卒業式で歌おうとなんの違和感もなかったし、無意識に無批判にそれを「あたりまえ」として受け入れていた。
そういった、君が代を歌うことが圧倒的に支持を集める中で差別は発生していた。大阪で橋下市長の「君が代強制」によって君が代斉唱中立たなかった教員が相次いで減給処分に科されたのである。
君が代を歌う、歌わないはその人の表現行動であって、言論表現の自由の範疇に入るものであるはずである。
それを弾圧することは、思想に対する弾圧と同義だ。
これは君が代斉唱を拒否する教員が「売国奴」であり、「非国民」であって、公に奉仕するには資さない人物であるという差別意識からくるものだと考えられる。
しかし、君が代を歌うことは当たり前、歌えなければ非国民であると捉えられてしまうという状況の中でその自由の弾圧は強い同質性をもつ日本においては無意識に正当化されてしまう。
同じような状況は、弁護士カップルにも降りかかっていた。
ある講演会に登壇した南和行弁護士は、後援会の後ある男性と口論に近い討論をする羽目になった。
その男性曰く、「憲法には『両性の同意に基づいて』とあるのだから、同性カップルが結婚できると言う南弁護士の憲法観はおかしい」。「そもそも同性カップルは家族になれない。家族とは男女子供で構成されるものだからだ」。(要約)
南弁護士は男性の意見は差別意識に基づくものだと反論するのだが、男性は差別思想は持っていないといって譲らない。結局、男性の意見は変わらないままそこでの会話は終わった。
男性の意見は近代的家族観を自明視するあまりに、それから逸脱する同性カップルにその家族観を押し付けてしまっている。
しかし、男性はそれに気づくことはなかった。近代的家族観が彼にとっての唯一無二の価値観であるから、それに対して疑いを挟む余地を彼は持っていないためだ。
君が代を歌うことが当たり前と思っている人が君が代を歌いたくない人に行う差別。
近代的家族観が当たり前と思っている人が結婚したいと思っている同性愛者カップルに行う差別。
このような同様の構図がこの映画では際立っていた。「あたりまえ」は差別においての重要なファクターなのである。
私は、この映画を観て社会、引いては自分の中に強固に存在するかもしれない「当たり前」を疑う契機になると思われる。
「当たり前」の加害性をこの映画は教えてくれた。
10/19(金)には南弁護士の舞台公演があるそうだ。ぜひ一度観に行ってみてはいかがだろうか。
映画情報
渋谷ユーロスペース